※私が主宰する「政経文化フォーラム」において、去る2018年11月27日(火)に行った講演の要約を掲載しています。

 連邦準備制度をつくった人達は色々なところにネットワークを持っており、もう一つの大切な機関がCFR(Council On Foreign Relations)、日本では外交評議会と訳している。「フォーリン・アフェアーズ」という雑誌を定期刊行しているアメリカ最大のシンクタンクである。歴代の大統領の多くがこのメンバーとなっており、アイゼンハワーやケネディやニクソンもメンバーであったし、ブッシュやクリントンもメンバーである。誰が大統領になってもアメリカの外交政策はCFRが決めると言われている。

 この外交評議会は不思議な組織で、一体どうやって誰がつくったのかを調べていくと、小説よりも不思議なことが色々出てくる。イギリスに王立国際問題研究所という非常に権威のあるシンクタンクがある。第一次世界大戦が終わった後、ベルサイユ講和会議があった時に欧米の関係者らが集まって、再び戦争を起こさないようにする為に互いに力を合わせなくてはいけないと考え、政策を立案するような機関を政府とは別につくろうではないかということで、1919年に王立国際問題研究所がつくられた。その支部をアメリカにもつくろうとしたのだが、なかなか前に進まない。そうこうしているうちに従来からアメリカにあった一つの組織を合体させてCFRをつくったのである。アメリカの外交評議会なのだからアメリカで設立会議が行われて然るべきだが、なぜかパリで開かれた。その時の主だったメンバーが先ほど申し上げたジェイコブ・シフ、JPモルガン、ジョン・D・ロックフェラー、ポール・ウォーバーグなど。初代会長はウォーバーグが務め、第二次世界大戦までは主にモルガンが資金的な援助をしていたが、第二次世界大戦後はロック・フェラーが中心となって資金援助をしている。

 このCFRとFRB、外交と金融の二つの大きな組織をつくってアメリカの利益を追求することだけではなく、世界全体をどう支配したらいいのかということもやってきている。

 アメリカの国力が最も強かったのは第二次世界大戦の直前・最中・終戦直後であり、世界の金(ゴールド)の大半をアメリカが持っていた時期である。1945年の終戦の前の年(1944年)にニューハンプシャー州のブレトン・ウッズにおいて、44ヶ国が参加してブレトン・ウッズ会議が開催され、経済金融面において戦後の世界秩序をどうするかが話し合われ、その結果生まれたのがIMF(国際通貨基金)、現在の世界銀行(当時は国際復興開発銀行)である。また当時はGATT(貿易および関税に関する一般協定)、今はWTO(世界貿易機関)という組織に変わったが、そういう組織がつくられたのである。圧倒的な国力を持っていたアメリカの主導で世界の新しい秩序をつくろうとした。各国もそれを認めざるを得ない状況だった。ところが時代が経ち、アメリカにとって大きな転換期を迎えることになる。それはベトナム戦争の失敗である。この戦争によってアメリカはかなり疲弊し、貿易と財政が赤字になる。同時に金もどんどん売らざるを得ない状況が出てきた。

 ブレトン・ウッズ会議では、国際機関をつくると同時に世界の基軸通貨をドルにしようと決めた。アメリカが持っている金とドルをリンクさせて、その値段を1オンス35ドルと決めた。更にドルと各国の通貨との交換レートを決め、固定相場制としてスタートしたのである。当時日本は1ドル360円で、その時代が長く続いた。ところがアメリカの総合的な国力が落ちてきて、金がどんどん売られていく中で固定相場制が維持できなくなってくる。アメリカを支配している金融資本の人達は通貨の発行権を持っているわけで、どんどんお金を発行し、世界にばらまいて支配をしようとすればできるのだが、金の保有が減っているので金と結びついているドル紙幣をむやみに印刷することはできない。そこで実行したのが1971年のニクソン・ショック、金とドルとの交換停止である。金とドルがリンクしなくなれば、通貨の発行権を持っている連邦銀行がお金を出そうと思えばいくらでも出せる。それがなぜまかり通ったかというと、ドルが基軸通貨であること、世界の貿易の決済通貨であることを他の国も皆認めていたからそういうことができたのである。

 その後、シカゴ学派の経済学者ミルトン・フリードマンらが新自由主義を唱えて、強い者をより強く大きくすれば全体がよくなるという考え方が広まってゆく。その理念に基づく政策を実行したのがイギリスのサッチャー首相とアメリカのレーガン大統領だった。そしてまさに日本でそれを実践したのが小泉純一郎首相と竹中平蔵氏である。結婚式などでよくシャンパンタワーをつくることがある。シャンパングラスを積み上げて上からシャンパンを注ぐとだんだん下にこぼれ落ちていき、最後は下まで一杯になる。富裕層や大企業の富が増えれば、最終的に富が滴り落ちて全体に行き渡る、いわゆるトリクルダウン現象が起きると彼は言う。当時竹中氏とはよく議論をしたが、私が反論したのは、全部のグラスが同じ大きさであればシャンパンは下に落ちてくるだろうが、上のグラスがどんどん大きくなっていったら下に落ちてくるはずがないということだった。今の金融資本や大手のIT企業の経営者にとっては飽くなき利益追求、儲ければ更にもっと儲けをということが唯一の目的だから、そういうところはどんどん大きくなり力を持つが、全体として豊かになることはない。従ってトリクルダウンの考え方を進めていけば必ず格差は拡大してしまう。

 昨年はじめの数字だが、世界の8人の大金持ちが36億人分の資産を持っている。また62人の金持ちが世界の大半の資産を占有している。日本にはもともとそんな大金持ちはいなかった。戦後、自らが汗を流して大きな会社をつくった松下幸之助さん、本田宗一郎さん、井深大さん達が飽くなき利益を追求したかというと、決してそうではない。一定の利益を得ながら様々な社会貢献を実践されたのである。

 しかも日本の場合には、1955年に左右社会党が一緒になって日本社会党がスタートする。それに呼応して自由党と民主党が合併し、自由民主党ができる。あの当時はまだ所得水準も低く、経済規模も欧米の先進国と比較すれば小さかったので、とにかく今日よりも明日の生活を豊かにしなくてはいけないということで経済政策に重きを置き、所得の向上に一生懸命に取り組んだ。池田勇人さんが政権を取る時のスローガンに掲げたのが所得倍増計画。そのことが国民に大きな夢を与えたことは、まだまだ所得水準が低かったということの裏返しでもあった。

 自民党はいかに経済力を大きくするかということに力を入れれば、社会党はその経済力によって生まれた富をどのように分配するかに重きを置いた政策を打ち出した。自民党は政権政党なので政権を離したくない。野党の政策に国民の多くが共鳴しているとすれば、その政策を自ら自民党の政策として採り入れて実行していった。その結果、だんだん社会党の存在意義が失われてしまって自民党の安定政権が長く続くことになった。そしてその結果どうなったかというと、本来資本主義ではつくれないはずの中間所得層に圧倒的に厚みを持つ国ができたのである。その中間所得層の消費力が個人消費をものすごく大きくし、どんどん需要が増え、経済規模が大きくなり、日本のGDPが大きく膨れ上がり、1人あたり国民所得も先進国の中でトップクラスとなった。その時に言われたのが「一億総中流社会」である。

 ところが今やどうなっているのかと言えば、2%のお金持ちが20%の資産を持つ国に変わってしまった。それはなぜかと言えば、新自由主義を具現化していく為に竹中平蔵氏が中心となって様々な規制改革を行い競争政策を推し進めたからである。私から言わせれば、竹中氏は学者でも政治家でもない。極端な言い方をすれば政商と言ってもいいようなことをやっている。(続く)