※私が主宰する「政経文化フォーラム」において、去る2021年6月28日(月)に行った講演の要約を掲載しています。
台湾に私が最初に訪れたのは、1972年の日中国交回復の2年後の1974年。同期の佐藤信二さんと2人で行ったのが最初である。台湾と断交した当時、椎名悦三郎さんが特使として台湾に行かれて説明にあたった。その時に私の先輩である綿貫民輔さんが随行しているが、空港に着いた途端に群衆から車の窓に生卵をぶつけられて大変な目に遭ったという話を綿貫さんから聞いていた。大変緊張して訪れたのだが、「この大変な時によく来てくれました」と非常に温かく迎えていただいた。その時のことをつい最近のことのように思い出す。それから47年が経っているが、台湾の色々な方々から色々なことを教えていただき、今日の私があると思っている。
台湾を初めて訪れた時はまだ戒厳令下。「大陸反攻」と書かれたスローガンが町中至る所に掲げられていた。大陸からの工作が行われているので戒厳令を続けているのかと思っていたのだが、後になって段々真実がわかってきた。当時は国民党の独裁時代であるから、日本の国会にあたる立法院があるにはあったが、全く力を持っていなかった。また、国民大会代表という人達がたくさんいた。自分は国会議員だと言っていたが、立法院の委員とは異なり、国会に出てくるような感じでもない。調べてみれば何のことはない。国民党から指名をされた人が国民大会代表になり、憲法改正と総統選挙の選挙権を行使する役割を与えられているだけだったのである。
1945年に日本が敗戦した後、日本は台湾における主権を放棄することを明らかにした。その後、連合国は日本の降伏の後の作業が台湾において順調に進むのかどうかをしっかりとフォローしてほしいということを当時の国民党政権に頼んだので、国民党軍が入ってきた。蒋介石はまだその頃は大陸で共産党軍と戦っていた。台湾に入ってきたのは1949年のことで、共産党軍に敗れた後、中華人民共和国が成立したことによって大陸から追われて台湾に来たのである。
最初に入ってきた軍人や官僚らが、台湾の人達に対してひどいことをやった。1947年2月28日、台湾では「2.28事件」と言っているが、大変な残虐、殺人行為が行われた。台北の街で闇タバコを売っていた婦人が憲兵から没収されて殴られた。それを見ていた群衆があまりにもひどいことをやるじゃないかと抗議し、ラジオ放送を通じて「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけた。全国至る所で反国民党の暴動が起きた。その時、大陸にいた蒋介石は援軍を送り、武力で暴動を鎮圧したが、その国民党軍によって当時数万人の台湾人が殺されたと言われている。その後もいわゆる白色テロ(憲兵が被っていた白色のヘルメットにちなんだ)が国民党統治に反対する人々に対して行われ、多くの台湾人が残虐非道の仕打ちを受けた。そういう国民党支配は蒋介石の長男の蒋経国総統になっても続き、「2.28事件」等については一切公にされていなかった。
私は不思議なご縁で蒋経国氏の息子である蒋孝武さん、蒋孝勇さんの2人とも個人的には仲がよかったし、ご家族とも親しくさせていただいた。蒋経国氏が1987年に亡くなられた時に、家族だけの葬儀、日本でいう密葬があった。蒋孝武さんから私に電話がかかってきて葬儀に出てほしいと言われ参列した。ご家族の方とごく近い友人だけで、外国人は私だけしか参列していなかった。その後も蒋経国氏の息子さんとの交流は長く続いていたが、その一方で台湾の本省人、もともと台湾にいた親しい人達から聞くと全く違った姿が見えてくる。
蒋経国氏は台湾の本省人を大事にしないと国民党が台湾から見放される時が来るのではないかと予知しておられた。そこで1984年に総統に再選された時、敢えて台湾の本省人である李登輝先生を副総統に起用されたのではないかと私は思っている。その蒋経国氏が急死をされて、1988年に李登輝先生が台湾人最初の総統に就任された。その後、2000年に陳水扁政権が誕生するまで12年間総統を続けられた。その間に実に見事に新しい体制を作られた。李登輝先生は「台湾民主化の父」と呼ばれているが、まさにその通りだと思う。国際社会の中で台湾をこういう位置付けにしたいという明確なビジョン、思いを持っておられた。また、日本統治時代の日本の心ある人達のおかげをもって、台湾の近代化が進んだということを非常に強く感じておられた。
最近、日本の政治家に会っても、いわゆる「オーラ」を感じる人が全くいなくなってしまったが、李登輝先生は私ばかりでなく誰がお目にかかってもオーラを感じさせる政治家であり学者であった。知識と知恵と見識の深さはとても及ぶところではないが、私は可愛がっていただいたせいか、お目にかかるといつも本音の話をしていただいた。「亀井さん、もっと日本はしっかりしなくてはダメではないですか」と怒られることばかり。「アメリカに対しても大陸に対しても、もっと言うべきことを堂々と言わなくてはダメですよ。言うべき力を日本は持っているのだから、何も遠慮することはない」といつも語っておられた。
晩年、李登輝先生にお目にかかった時のこと。尖閣諸島の問題が日本でも大きな問題になっていた時に「日本の人達はもっと勉強をしなくてはダメです」と言われる。どういうことか聞いてみると、「尖閣諸島は、もともとは琉球王朝に帰属していた。ところが周辺が大変よい漁場だから、台湾の漁民もそこで操業していた。操業にあたっては琉球王朝の許可を得ていた。その琉球が沖縄になり、沖縄が日本の領土に返還されたのだから、当然、日本のものですよ」。
当時、台湾の馬英九政権も領有権があると主張していたが、李登輝先生は「馬英九は間違っている。尖閣諸島は台湾のものではない。ましてや中国のものではない。日本のものだ。台湾人である私が言っているのだから間違いない」とも語っておられた。尖閣諸島には今、人が住んでいない。日本がちょっと油断をすると、人が住んでいない島だから中国に実効支配をされかねない。そういうことをされないために、日本人は台湾の歴史、尖閣諸島の歴史をもっと知ってほしいと思う。(続く)