※私が主宰する「政経文化フォーラム」において、去る2021年6月28日(月)に行った講演の要約を掲載しています。

 今日は台湾の話をしたいと思う。今、米中関係が極めて厳しい状況の中、中国の覇権主義がますます露骨になってきている。7月1日に中国共産党創設100周年の行事が行われるが、それを前にして中国内部で様々な動きが出てきている。建国以来の歴史や党史を総括するための機関が作られ、その大枠が示されている。習近平総書記の独裁体制がますます強まってきていることは申し上げるまでもない。極めて危険なことだと思うが、すでに憲法改正を行って、国家主席の任期(2期10年)を撤廃してしまった。中国共産党創設100年と、中華人民共和国建国100年の2049年、この「2つの100年」を重要視している。習近平総書記の露骨な権力欲が中国国内に留まっているのなら仕方がないが、中国の経済力も軍事力もこれほど大きくなってくると世界に与える影響は非常に大きく、アメリカもEU諸国もアジアの国々も黙っているわけにはいかない状況になっている。

 先般、G7がイギリスのコーンウォールで行われたが、そのG7の様子を見ていても中国に対する危機感が非常に強く出てきている。中国の覇権主義を何とかして抑えていかないと、世界の中に混乱が生まれてくるのではないかとの危機感が強まっている。

 米中対立の状況下で、アメリカは安全保障面、経済面において、アジアの大国であるインド、日本、そしてアメリカ、オーストラリアの四カ国の連携による「Quad」という枠組みで、中国に対峙していく考えを持っている。その枠組みの中に名前こそ出てはこないが、最も重要なのは台湾である。台湾がどうなるかということは、まさに世界を大きく変えることにつながってしまう。日本の最良のパートナーである台湾との関係をもっと真剣に考えて、相互理解を深め、台湾の国際的な活動がより高まっていくためのバックアップをしていかなくてはいけない時だと思っている。

 昨年7月、残念ながら97歳で逝去された李登輝元総統を私は「東洋の哲人」として心から尊敬していた。李登輝先生とのご縁はかなり古い。李登輝先生は京都大学、アメリカのコーネル大学で農業経済学を専攻され、コーネル大で博士号を取得された優れた学者だった。蒋経国総統の時代に、李登輝さんは総統から大変高く評価され、政務委員に抜擢され、その後、台北市長や台湾省の主席を務められた。そして、1984年に蒋経国氏は総統に再選された時に、李登輝さんを副総統に起用した。その正副総統の就任式に私も参列したが、外省人である蒋経国総統が本省人である李登輝さんをなぜ敢えて起用したのか、それは台湾の歴史を正しく学べば自ずから理解できると思う。

 もともと台湾は国民党のものではなかった。1895年~1945年までの50年間は日本が統治していた。ただ、日本が統治していたといっても日本の植民地だったわけではない。このことを多くの人が誤解している。植民地政策は一切行っておらず、まさに台湾は日本の一部であるという考え方で、内地と同じ政策をとったのである。

 申し上げるまでもなく蒋経国氏は蒋介石の子息。蒋介石は建国の父といわれる孫文が創設した国民党の後継指導者であり、抗日戦争を戦った当事者。多くの日本人が大きな間違いをしているのは、日本が中国共産党軍と戦ったように思っていることである。日本は中国共産党と戦ったことは一度もなく、国民党軍と戦ったのである。その国民党軍と日本が戦っていた時に、その隙をついて中国共産党の勢力が国内でものすごい勢いで拡張し、最終的に国民党から政権を奪って1949年に中華人民共和国をつくったのである。日本の政治家で不勉強な人はアジア各国に行っても、中国に行っても「申し訳ないことをした」、「日本の軍国主義が皆さん方に迷惑をかけた」と頭ばかり下げているが、もっと歴史をきちんと勉強していただかなくては困る。

 毛沢東が健在だった頃、1953年に日本の実業家であり、政治家でもあった久原房之助さんが毛沢東に会ったことがある。その時に毛沢東は「日本が国民党と戦ってくれたおかげで、自分たちは政権を取れたのだから、何も謝ってもらうことはありません」と言っている。その後、1956年に日本の元軍人だった人達が15人ほどで訪中団を組んで行った時も、1964年に社会党の委員長だった佐々木更三さんが北京を訪問した時も、毛沢東から同じことを言われている。正しく歴史を見ていかないとこういうことがわからない。

 日本が台湾を統治した50年間、日本がどういうことをやったのかをもう一度よく振り返ってみるべきだと思う。台湾はもともと、オランダが1624年から38年間にわたって統治をしてきた。その後、1644年に中国大陸では明朝が滅んで満州人の清朝が征服王朝となったが、その時に鄭成功が明の遺臣として台湾を拠点に清に対抗し、清に敗れるまで22年間統治をした。その後、清の統治が200年以上続いたが、清が統治をしても台湾は全然発展しなかった。日本が日清戦争に勝利して下関条約で台湾の割譲が認められ、1895年から日本が領有するようになった。その頃の台湾は治安も衛生状態も悪く、風土病も蔓延していた。私の母の祖父である北白川宮能久親王は、日本の統治が始まる前年に台湾を視察されていた時に、風土病にかかって亡くなっている。台北に中国の伝統的な建築様式のホテル・圓山大飯店があるが、元々は北白川宮能久親王を祀る台湾神社があった場所である。蒋介石が共産党との内戦に敗れて台湾に入ってきて、日本統治時代の象徴的建造物だった神社を壊し、蒋介石夫人の宋美齢が中心となって立派なホテルを建てたのである。

 日本が領有した当時の台湾は大変な状況にあって、日本から人が行っても住民の抵抗にあい、思うように事が進まない。それを何とか平定したのは児玉源太郎第4代総督の時である。その児玉源太郎総督の下で民政長官を務めたのがのちの東京市長、外務大臣になる後藤新平である。後藤新平は台湾の人達から「台湾近代化の父」と呼ばれている。教育の普及、鉄道や上下水道などインフラの整備、医療の充実などを行って、大きな功績を上げられた。その頃に後藤新平が台湾に招聘したのが新渡戸稲造。のちに国際連盟の事務次長になられる人で、五千円札の肖像にもなっている。

 李登輝先生は、後藤新平と新渡戸稲造を大変尊敬しておられた。特に新渡戸稲造については、自分の人生で最も影響を受けた人として尊敬し、英語で書かれた新渡戸の著書『武士道』の解説書まで書いておられる。李登輝先生は「後藤新平さん、新渡戸稲造さん、またその指導の下に色々なことをやってくれた日本の一流の人達がいたから今日の台湾の礎ができている」としきりに語っておられた。

 例えば、台北の上下水道は東京よりも早く整備されたが、当時世界最先端のこの上下水道を作ったのが日本人技師・浜野弥四郎で、「台湾水道の父」と呼ばれている。また、不毛の地帯であった台南の嘉南平野を農地として整備するため、烏山頭ダムを建設、16,000キロに及ぶ農業用水路を整備し、肥沃な農地を造ったのが八田與一である。台湾ではこのダムと用水路の水利設備を「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼んでおり、八田與一は「嘉南大圳の父」と言われ、その場所に記念館もできている。

 台中から少し山に入ったところに「日月潭(にちげつたん)」という景勝地がある。その場所に水力発電所を建設した松木幹一郎は「台湾電力の父」と呼ばれている。

 台湾総統府の建物は東京駅によく似ている。東京駅を設計した辰野金吾の弟子の長野宇平治が設計コンペに当選し、その基本設計に森山松之助が手を加えて台湾総督府が完成したのである。総督府は当時のまま総統府として現在も使われており、4基のエレベーターのうち1基は今も当時のまま使われている。1999年の台湾中部大地震の時に多くの建物が倒壊した中で、総統府はビクともしていない。

 また、台湾に蓬莱米というブランド米があるが、これは日本のお米を持ち込んで品種改良に成功したものである。「蓬莱米の父」と呼ばれる磯栄吉は今でも高く評価されている。

 こうしたことからもわかるように、当時、日本の一流の人達が台湾に行き、台湾の国づくりのために頑張ったのである。ただ、台湾の人達がすべて日本の指導者達と直接接していたかというと決してそうではない。台湾の一般の方々が接しておられたのは、地方に赴任している役人や警察官、学校の先生などだが、そういう人達がまさに台湾は日本であるという意識の下に一生懸命尽力し、台湾の人達の日本に対する思いが自然に形成されてきたのである。(続く)